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追悼・野村克也、「月見草」の功績を感謝とともに振り返る

追悼・野村克也、「月見草」の功績を感謝とともに振り返る

ありがとう、ノムさん

燕党としては、そのひと言しかない。

東京ヤクルトスワローズと言えば「弱小球団」の代名詞だった。セ・パ両リーグ制となった1950年、国鉄スワローズとして産声を上げ、日本球界唯一の400勝投手・金田正一さんを擁するも、国鉄時代Aクラス入りはたった一度

産経を経て70年にヤクルトとして再スタート、78年に奇跡の初日本一に輝くも、80年代もAクラスはたった2度。そんな中、90年に監督に就任したのが、南海ホークス選手兼監督として名を馳せた野村克也さんだった。

≪文:たまさぶろ●スポーツ・プロデューサー、エッセイスト、BAR評論家≫

自らを「月見草」と表現

監督就任時、当時の相馬和夫球団社長に「1年目には種をまき、2年目には水をやり、3年目には花を咲かせましょう」とした「公約」通り、就任3年目の92年「ID野球」が花開き、14年ぶりのリーグ優勝へと導いた。

93年には15年ぶりの日本一に輝き、95年、97年と日本一、一躍90年代最強チームへと変貌させた。これに感謝せずして、何に感謝しよう。

以降、阪神、楽天を率いたが結果を出せず退いた。しかし、野村監督の後を受けた星野仙一監督がそれぞれ優勝を勝ち取った要因は、野村さんが蒔いた種を刈り取ったに過ぎないと見る。

もちろん、野村監督に対する賛否はある。しかし、燕党にとっては感謝しかない。

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長嶋茂雄さん、王貞治さんなど煌めくスター選手が名を連ねる野球界において、我々のような凡庸な一般人にとって少しでも参考になるのは、実はノムさんの人生だ。

ひまわりもあれば、人目につかない所でひっそりと咲く月見草もある」と、自らを「月見草」とした言葉はあまりにも有名。

月見草

「野村克也」を存在させた数々の縁

1935年京都府網野町(現在の京丹後市)出身。まったく無名の同府立峰山高校を卒業、54年にテスト生として南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)に入団。

3年目に正捕手に定着すると、59年、64年にチームを日本一に押し上げる原動力となる。8年連続本塁打王、65年には戦後初の三冠王を獲得。通算657本塁打王貞治さんに続き、プロ野球記録2位

選手として、監督として輝かしい成績を残したノムさんだが、そのプロ野球生活は底辺からのスタートだった。無名の母校で野球部部長を務めていた清水義一先生が野村さんを見込み、阪急阪神南海に推薦状を送付。すると当時の鶴岡一人南海監督が試合を視察、南海の入団テストに参加することに。

しかし、そのテストでは遠投の距離が届かず、テスト担当だった「河知さんが小さい声で『ライン越えて投げろ』」とズルを勧められ、5メートル前から投げることで合格。ぎりぎり入団にこぎつけたという逸話も。

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入団したものの、球団での役割は「」、つまりブルペン捕手としてプロ投手の球をただ受け続けるだけ。しかも1年目のオフにはクビを宣告された。

もう1年だけ球団に置いてもらえなければ「南海電鉄に飛び込みます」と泣いて訴え、生きながらえたと言う。

こうした数々の縁がひとつでも欠けていれば、「野村克也」という大選手、大監督は存在せず、日本プロ野球の歴史も大きく変わっていた

燕党としては日本一に狂喜する機会もなく、今も神宮で漫然と負け試合を眺め続けていたかもしれない。